ヘレニズム期の彩色墓碑試論
中村るい

リシアのヴォロス美術館収蔵の「ヘディステの墓碑」(紀元前3世紀)は、テッサリア地方デメトリアス・パガサイ遺跡出土のヘレニズム時代の彩色墓碑のうち、最も複雑な構図をもち、これまで絵画史研究者の論争の的となってきた。この墓碑は、ヘレニズム絵画の空間構成や、ギリシア葬礼芸術の認識への再検討を迫るものである。その図像は、墓碑銘にも記されるように、産褥の床で息をひきとった若妻の図で、図像の意味と奥行きある空間表現について、統一ある見解は出されていない。一般に墓碑には、根本的に相反する二つの面、すなわち、1) 肉親の死を悼む私的感情の表現と、2) 公的空間に設置する公の標示物としての側面、がある。この二面を念頭に「ヘディステの墓碑」がギリシア葬礼芸術の伝統において、どう位置づけられるかを考察する。

本発表は二部よりなり、まず、ギリシア葬礼芸術(特に、アッティカ浮彫墓碑と白地レキュトスを含む彩色陶器の伝統)において「ヘディステの墓碑」が占める位置を検討する。つぎに、当墓碑に表現された産褥死の図像を、当時の社会の価値観の反映という点から検討する。古代ギリシア社会において、女性の産褥死は、男性の戦場における死と比肩する、最も名誉ある死の形態だったと推測される。この名誉ある死を効果的に表現するため、特定の時間と空間が描写されたと考える。墓主ヘディステを、「プロテシス」(いわゆる「遺体安置」:仏教における「通夜」と類似した儀式)以前の、息をひきとった直後の時間において、また、奥行きある写実的な空間内に描いている。それはクラシック美術の目指した普遍性ではなく、ヘレニズム美術にみられる特殊性への偏向の一端を示すものであろう。

結論として、本稿では「ヘディステの墓碑」を単に感情的で私的な記念碑とみるのでなく、当時の社会の名誉ある女性像のイメージが、公的空間に演出されたものと考える。



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