初期プラトン哲学における実践的性格 −「技術」観を中心に
和田義浩

報告の直接的な目的は、一般的に「実践的」と評されているところの、いわゆる「初期プラトン哲学」の性格について、特に「技術」観を中心に検討し、その意義を探ることである。

アリストテレスとカントの実践観には大きく見て、二つの共通する視点があるように思われる。一つは、人間の意識的活動とそれを可能にする能力を、純粋な「理論」的側面と「実践」的側面に大きく区別する視点であり、そしてもう一つは、人間の実践性一般を、自己目的性が問われる「行為」と、他の目的を目指す「技術」(制作)に区別する視点である。それに対して、ソクラテス、プラトンの場合はどうか。そこには人間自身、ひいては人間と世界との関係を分別的に規定する以前の、何か総合的、かつ根源的な人間観・世界観があったのではないかと思われる。

総論的に、初期プラトン哲学の実践的性格は、a. 「技術」(techne)観との密接な関連性、b. いわゆる「初期イデア論」展開の実践的前提、そして c. 「善」「幸福」という究極目的の設定、という、相互に本質的なつながりを持った三つの側面に分析可能であり、その全てが前述のソクラテス・プラトン的見解を表明しているが、本報告はこのうち、a. を主題とするものである。

『プロタゴラス』篇におけるミュートス(320d-322d)が端的に示しているように、技術を介して生きるということは人間存在の本質をなしており、しかもその技術は実際上「知」に他ならない。さらに詳しく見るならば、この技術は常に「成果」(ergon)を求められるという意味において、またその成果が常に技術対象の「善」であるという意味において、技術の目的論的性格に力点が置かれている。また技術であるところの「知」は、端的に対象の「何であるか」(対象の本質的あり方)を把握することを目指す、ソクラテスが終始要請し続けたところの、厳密な意味における知である。

こうした技術観の一般的な性格に加え、いわゆる「徳」(arete)と「技術」の関係をめぐるソクラテス・プラトン的見解に注目しなければならない。結論的に述べるなら、「徳」は人間(ないしは人間の「魂」)に備わるべき善性として、「魂を世話する技術」という、一つの技術の対象である。そして同時に、徳は人間の個人的・社会的生活全般の善し悪しを決する「善悪の知」であるという意味において、それ自体一つの、究極的な技術である。

「徳」と「技術」をめぐるこの二重の関係性は、初期プラトン哲学の実践的性格の特質を端的に示していると思われる。すなわち、「魂の世話」という技術は人間(魂)自らを善いもの、徳を備えたものとしてあらしめようとする。また徳、すなわち善悪の知としての技術は、自らのあり方を善きもの、幸福なものにあらしめようとする。こうして二つの技術は、結局人間から発して人間へと戻ってゆくことになる。換言すれば、「実践」「行為」の持つ自己目的性(対自性)が、厳密には「技術」によって媒介されるものであることを、ソクラテス・プラトン哲学は明示しているということである。

以上のような技術観は、「知」の客観性や合理性と、いわゆる目的論的世界観の関係を改めて我々に突きつけ、人間的存在と自然的存在の峻別という、近代以降の枠組みに対する再考を要求する。しかしそれと同時に、技術が現実的に、「教育」や「政治」といった形において、実際に人間自身に向けられるとき、個と社会全体との関係、人間存在の究極目的の現実的規定といった、根本的な問題が鮮明に提起されることも事実である。ソクラテス的技術観に含意されるこうした問題をどう受け止めるべきであるのか ─ こうした課題に対する一つの取り組みが、プラトンの中期以降の哲学的思索に他ならない。



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