ガレノスの生涯と著作
土屋睦廣

レノス研究への序論として、ガレノスの生涯と著作について、近年の研究動向の紹介を交えながら概説した。

ガレノスは紀元129年の8月か9月にペルガモンに生まれた。幼少のころから父親によって教育を受け、数えで15歳になると、プラトン派、ペリパトス派、ストア派、エピクロス派の教師のもとで哲学を学んだ。ガレノスが17歳のとき、彼の父親は夢のお告げに従って、ガレノスに医学の勉強を始めさせる。20歳のときに父親が亡くなると、彼は故郷を離れ、スミュルナとコリントスで学んだ後、アレクサンドリアへと赴き、そこで数年間研究を続ける。157 年にペルガモンにもどり、剣闘士の医師という公職に就き161年まで勤める。同年かあるいは翌年、ガレノスはローマへ赴く。ローマでは執政官らの知己も得て、医師として目覚しい活躍を遂げ、皇帝マルクス・アウレリウスの信任をも得る。166年の夏、彼はローマを去って故郷へ向かう。しかし、帰郷して2年も経たないうちに、皇帝からアクウィレイアへ招聘される。アウレリウス帝はガレノスにゲルマニア遠征への従軍を請うが、ガレノスはこれを辞退する。その代わり彼はローマでアウレリウスの息子コンモドゥスの侍医を勤めることになる(169年)。以後、ガレノスは相当の年月を(おそらく没するまで)ローマで過ごす。ガレノスの没年は、従来は199年あるいは200年とされてきた。しかし、この年代は「70年生きた」とする『スーダ』事典(10世紀末)の記述を唯一の典拠とするもので、さほど確かなものではない。今日では210年以降(217年?)とする見解が有力となっている。

ガレノスはその生涯において膨大な量の著書を著した。その主題は医学の領域全般のみならず、論理学、哲学、文献学など、きわめて多岐にわたっている。『自著について』と題する一種の自己文献解題には約200の書名が挙げられており、そのうち70余りが現存する。また、これ以後に著された著作も相当数あり、今日何らかの形で伝存する著作は100近くになる。 現在、一般に利用されているキューン版全集(1821-33年刊)は、ラテン語との対訳本で、全20巻、総計2万頁に及び、126篇の著作が収録されているが(偽書が多数含まれている一方で、未収録の著作もある)、批判的校訂版と言いがたい。今日最も信頼できるガレノスの校訂版はCorpus Medicorum Graecorumと題する叢書として刊行されつつある。これは1914年から刊行が始まったが、そのペースは遅々としたもので前途遼遠である。ガレノスのテクストの校訂には、大量に存在するアラビア語やシリア語の翻訳写本も有力な資料となり、この方面でも今後の研究の進展が期待される。



Copyright ©早稲田大学地中海研究所
本ページの無断転載を禁ず